今日も明日も明後日も、
この街では、常にどこかで火が灯る。
いくら世界が変わろうと
KOUBAの炎は燃え続ける。
その火を絶やさず、
未来へ繋ぐことが私たちの願いだ。
思いが灰になることは、決してない。
この秋、
新潟県燕三条および、その周辺地域は、
1ヵ月にわたって「動画と配信」で、
KOUBAの日常を発信する。
金属加工や鍛冶、木工など、
現場の製造風景。
職人たちの対話や、道具の実演。
特別ではない毎日を
ありのままに伝えることが、
私たちの掲げてきた目標だから。
LIVE! KOUBA
これまで足を運んでいただいた
KOUBAが、
この秋はみなさまのもとへ。
どこよりも熱い、
燕三条の秋にご期待ください。
期間 2020年10月1日(木)―10月31日(土)
公開時間
08:00- KOUBA動画
14:00- KOUBA配信
19:00- KOUBA対談(10月6日、20日、31日)
Facebook
Instagram
Twitter
オフィシャルブック 2019 購入
オフィシャルメールマガジン登録
主催・運営:「燕三条 工場の祭典」実行委員会
共催:公益財団法人燕三条地場産業振興センター、三条市、燕市
全体監修:method
アートディレクション・デザイン:SPREAD
撮影:神宮巨樹、古平和弘
プロジェクション:岸本智也
編集・文:山田泰巨
翻訳:カプラン・ザッカリー
ウェブ制作:スマイルファーム
プレス:HOW INC.
「燕三条 工場の祭典」実行委員会
公益財団法人燕三条地場産業振興センター
燕三条ブランド推進部 企画推進課 内
新潟県三条市須頃1-17
TEL:0256-35-7811
Mail:kouba-fes@tsjiba.or.jp
HOW INC.(燕三条 工場の祭典 PR事務局)
TEL:03-5414-6405
Mail:pressrelease@how-pr.co.jp
1625年、代官所が水害に苦しむ農民に副業として和釘作りを奨励したことが燕三条における金属加工の始まりと言われています。当時、江戸では大火による延焼を防ぐために破壊消火を主としており、大火後は和釘が大量に求められました。
これによって産業が発展するものの、明治時代にヨーロッパから西洋建築の技術と洋釘がもたらされ、需要は激減します。それまで和釘を作っていた鍛冶職人も技術を活かし、銅器や刃物作りへと転向していきました。現在、燕三条地域における和釘専門の鍛治職人はわずか一人です。しかし現在も伝統的な寺社仏閣の修理復元に和釘は欠かせず、用途に合わせてさまざまな形状が作られています。
職人が一本ごと、真っ赤に焼いた鉄を鍛えることで、腐食に強く、耐久性に優れたものが作られる和釘。現在はキャンプ用ペグが同じ手法を用い、アスファルトの道路を貫通するほどの強度を実現します。和釘作りは、現在の燕三条の金属加工産業へと続く原点です。さまざまな産業はこの技術の応用から始まりました。
燕三条の西にある間瀬銅山(新潟市西蒲区)は、1700年から220年間にわたって銅を産出した鉱山です。その唯一の精錬所が現在の燕市にあったことから、燕三条では銅器や煙管の製造が盛んになりました。
紀元前3600年前後にメソポタミアで始まった鋳造は、金属を溶かし、型に流し込んで成型する金属加工法です。燕三条の職人は製品の用途に合わせて金属を使いわけ、それら素材の特性を引き出すことを得意とします。三条市内の下町遺跡は室町時代の暮らしをいまに伝えるものですが、ここでは精錬所跡や鋳造で作られた鉄鍋が出土しました。この鍋は厚さ3mmと非常に薄く、現代でも再現が難しい技術を見ることができます。そのため当時、すでに高い技術をもつ職人集団が燕三条にいたと考えることができます。
田畑を耕す鍬ほど、大量生産に不向きな農具はありません。田畑を耕す用途は幅広く、さらに地域ごとの土質に合わせた形状が求められます。たとえば燕三条のある新潟は土が柔らかく、田んぼで畝を作るため、幅広の鍬が好まれます。しかし土の粒が粗い関東地方では畑での使用が多く、鍬には土を掘ったり、根を切ったりする機能が求められます。第二次世界大戦後まで、日本全国に18,000ほどの野鍛治がおり、鍬も1万種類ほどあったと思われます。しかし農業の機械化とともに、鍬の需要、野鍛冶は大幅に減少します。やがて燕三条には、全国から鍬の修理依頼が寄せられるようになりました。
一方鎌は、燕三条の開墾が盛んになった江戸初期に製造が始まります。新田開発とともに農具の需要も高まり、草刈りや稲刈りなど、用途に応じて製造された鎌はやがて、日本全国で使用されるようになります。鎌も鍬同様、刈る植物や地域ごとに形状が異なります。ともに農業の機械化に伴い需要は低下していますが、燕三条ではニーズに応じた製造を続けています。我々は道具を作り続けることで、日本における農耕文化の多様性を支えています。
1661年、会津から燕三条に鉈の製法が伝えられます。第二次世界大戦後の建設ラッシュでその製造は最盛期を迎えますが、チェーンソーの登場や安価な木材の輸入を背景に、生産量は減少します。結果、多くの工場が工業化を進め、早く、安く、大量に作ることで生き残りを図りました。しかし燕三条にはいまも、伝統的な手作業にこだわり続ける職人親子がいます。
日野浦刃物工房の父、司はすべての工程を手作業にこだわり、機能美と造形美を兼ね備えた「司作」ブランドが主にアウトドア用として海外から高い評価を得ています。一方、息子の睦による「味方屋作」ブランドは手作業を中心としながらも一定の量産に対応し、実用的で林業関係者に支持されています。同じ工房でともに製作に励む親子ながら、刃物作りの考え方は違います。しかしより良いものを求める誇りは両者ともに変わりありません。
1661年、会津から燕三条に鋸の製法が伝わり、その目立て用道具として鑢の製造も始まりました。明治から大正時代にかけて日本では大きな災害が頻発し、復興に必要な鋸、鑢の製造が増加します。1900年頃には、燕三条が全国における鋸・鑢生産量の8割を占めるまでに発展しました。
鋸と鑢はともに「目立て」の工程が重要です。職人が一つひとつの刃に鑢を当て、切れる鋸へと仕上げていく鋸の「目立て」。鋼の板にタガネを一つひとつ打ち込む鑢の「目立て」。また鑢の製造自体にも鑢が必要で、目立ての凹凸だけでなく、鑢の表面全体を鑢で荒らすことで細かい凹凸をつけ、鑢の研削力を向上させています。また立てた目に鉛が詰まらないよう、鋼を焼く前に味噌を塗るという独自の工程も特徴的です。近年は替刃式鋸の普及や金属洋食器産業への移行に伴い両産業の生産量は減少していますが、バイオリン製作用の道具など、用途を変えて世界中から注文を受けています。
1700年代前半まで、世界最大の銅産出国であった日本。そのころに採掘が始まった間瀬銅山は良質な銅を産出しました。それを求めて仙台からやってきた銅器職人が、一枚の銅板を鎚で叩いて形づくる鎚起銅器の技術を燕三条に伝えます。
鎚起銅器は熱伝導率が高い素材特性を活かし、主に鍋や薬缶などの実用品を製造します。現在も職人はケヤキ材の台に腰掛け、台座に差し込んだ鳥口(鉄棒)に加工中の銅器を引っ掛けて金鎚で叩き続け、完成を目指します。またさらに、銅に錫を焼き付け、薬液に浸けることで銅の色を変化させて美しい表情を生み出します。明治以降、海外でも槌目といわれる加工の表情や色彩の妙が高く評価され、美術工芸品の製作も求められるようになりました。現在はふたたび酒器や茶器の製造を中心に、実用と芸術性を兼ねた銅器が世代を超えて愛されています。
煙管は先端の火皿に刻みタバコを詰めて点火する喫煙道具です。しかし江戸時代から明治時代にかけては、道具に留まらずファッションアイテムやステイタスシンボルとして人気を集めました。武士や商人、そして遊女らは絢爛豪華な装飾で個性を競おうと、彫金師に加工を依頼したのです。
煙管作りに欠かせない鍛金・彫金技術が燕三条地域に伝来したのは江戸時代中期です。1930年頃には日本一の産地として全国生産量の8割を占めるに至りますが、第二次世界大戦後に手軽な紙巻たばこの需要が高まりました。煙管の需要が激減するとともに職人も減り、現在は燕三条でも金属製煙管を手作りできる職人はわずか一人を残すのみ。手作りの煙管は、機械製にない薄さと軽さを実現し、愛用者はそれに魅了されるといいます。
1911年、東京からの発注をきっかけに燕三条で金属洋食器の製造が始まったとされます。煙管の仕上げから発展した研磨技術を応用し、金属洋食器は燕三条の新たな主力製品として根付きます。第二次世界大戦後は貿易問題を経て国内外に大きく展開しますが、1990年代にはアジア諸国の台頭から、技術力での差異化を図ります。現在も工場では、職人が研磨剤を塗布した磨き布(バフ)を使い手作業で磨く姿が見られます。素材や大きさ、形状によってバフや研磨剤を使い分け、たとえばバフには目の粗い切削力のある布から絹のように軟らかい布まで100超の種類が揃うといいます。
へら絞りは、金型とともに円盤状の金属板を旋盤に取り付け、金属棒で回転する板に圧力を掛けて成型する加工法です。その技術は経験を必要としますが、なかには金型を用いずに金属棒のみで成型する高度な技法「空絞り」を操る職人も。金属に圧力をかけて加工する点でプレス加工と似ていますが、複雑な形状や少量生産への対応などの一次加工を担い、多品種少量生産に対応できる貴重な技術です。
多くの人が日常的に使う鋏は、2枚の刃が1つに合わさることでモノが切れる刃物の一種です。よく切れる鋏であるためには、2枚の刃が1点のみで接する必要があり、その調整には熟練の職人技が求められます。
鋏のなかでも、華道や園芸に使用される鋏を木鋏と言います。燕三条では江戸時代後期から製造されるようになり、昭和に入ると華道や盆栽の需要増加から技術が発達し、多種の木鋏が製造されるようになりました。特に華道用の木鋏は300以上あると言われる流派ごとに鋏の形状も違い、こうした微妙な違いに事細かく対応できることも手仕事の魅力と言えます。
江戸時代中期に、燕三条の庖丁は国内の市場に姿を表します。燕三条の金物問屋が信濃川の水運を利用して全国を行脚し、さまざまな種類の庖丁の注文を取ったことで、どんな庖丁にも対応可能な技術が燕三条で培われました。
庖丁鍛治のタダフサは、1960年頃まで蟹の大きさを測る定規の機能を備えた庖丁など、主に漁師向けの専用刃物を製造していました。しかし養殖産業の隆盛で漁業刃物の需要が減少するなか、ニンニク用庖丁や白菜切り庖丁など、地域ごとの農作物に合わせた収穫用庖丁を手掛けるようになります。こうして、日本の山野河海に息づく多様な生活に寄り添う特殊な庖丁の製造を得意とするようになります。この技術を活かし、専門性に特化した蕎麦切り庖丁などの手作業で仕上げる庖丁から家庭用のデザイン性が高い庖丁まで、料理用庖丁を中心に製造を続けています。
切出小刀は、鋭く尖った先端と斜めにつけられた刃を特徴とする片刃の刃物です。主に細かなものを削る道具で、かつては鉛筆を削る刃物としてよく使用されました。しかしカッターナイフや鉛筆削り機の普及で鉛筆削りの用途を失い、日常生活での需要は大きく減少します。ただし活躍の場は、日常からプロの舞台へと移り変わりました。現在も、木彫や竹細工などの木工加工、果樹や花木の繁殖方法である接ぎ木には欠かせません。切れ味や品質を求める多くの職人に応える唯一無二の道具です。
L字型の金属製物差しを曲尺といいます。その目盛りと形状を用い、木材加工の目印をつける道具です。燕三条では江戸中期が起源といわれ、1893年の法整備を経て、製造が活況を呈します。しかし加工済みの木材を現場で組み立てる工法が主流になると、曲尺の使用も減少。もともと曲尺を製造していたシンワ測定は現在、レーザー光の照射で基準線を出す機器を製造し、時代に即した手法で用途に応じます。
一方、建設現場で直線を引く道具が墨壺です。燕三条では明治末期に製造がはじまリ、最盛期には国内市場の8割以上を占めました。しかし工法の変化や道具の機械化で需要が減り、墨壺車を製造していた工場のなかには木箸などの木加工業へ転換したものもあります。また農耕具や刃物の製造が盛んになると柄入れの工場も登場し、燕三条では金属加工に加えて木工業も発展を始めます。鍛治技術とともに培った大工道具の技術は、現在も形を変え生き続けています。
1882年ごろ、燕三条に大工道具の鉋と鑿の製法が伝えられます。鉋は木の表面を滑らかに削る道具で、木の形状に合わせて豊富な種類が揃います。また、鉋刃を作る鍛冶職人と鉋刃を組み込む台を作る木工職人の二者が協業するという点でもユニークな製造過程をもちます。木を削る刃の切れ味はもちろんながら、刃ごとに異なる特性に応じた台も重要です。その技術は現在、家庭用鰹節削りなどの新たな製品に広がりを見せます。
一方鑿は、木材に穴を穿ったり、割ったり、削ったりと、さまざまな用途に応じる道具で、最も種類が多い日本の大工道具と言われています。木造建築の複雑に入り組んだ接合部、細かな加工や繊細な仕上げなどで活躍しますが、燕三条で最盛期には50軒ほどを数えた鑿工場も現在はわずか6軒を残すのみ。しかしそれらの工場には全国各地の大工から特注製品の注文が入り、鑿に限らず、宮大工が使う手斧や槍鉋などの道具を作る工場も少なくありません。近年はバイオリンやギター製作の道具などとして、世界各国から注文が相次ぐようになりました。
山林を切り開く鉞は、明治後半から大正時代にかけて製造が盛んになりました。倒木や薪割りなど、用途に応じて、重さや形、長さが異なり、幅広い種類が揃います。近年は需要が落ち込んでいたものの、昨今のアウトドアブームでキャンプ道具として新たな需要が高まりました。伝統的な鉞の両面には7本の溝が刻まれており、その溝一つひとつが神様を表します。危険な作業の安全を願う意味を込めたものですが、そのことから船の進水式では船につながる支綱の切断にも使われます。
一方、喰切は刃を食い込ませて釘や針金を切断する鋏です。大正初期に、商人が関西方面から燕三条に持ち込んだ製品を参考に製造が始まったと言われます。第二次世界大戦後に軍需品の需要がなくなり、量産型の安価なニッパーの製造もあって市場は次第に縮小しました。そのなかで喰切を製造してきた諏訪田製作所は、既存の技術を活かした爪切りや盆栽用鋏を作り始めます。現在では寸法の違いを含めて60種類の盆栽用喰切を製造しており、これほど多種類の盆栽用喰切を製造する工場は唯一無二です。
明治時代末期から大正時代にかけ、煙管を量産するために燕三条でも金型の製造が始まりました。昭和初期には、銅器や煙管に装飾を施していた彫金師が金属洋食器用の金型に模様を彫りだしたことで技術が発展します。第二次世界大戦後、さまざまな刃物や作業工具などの製作に金型が導入され、製品の量産化が進みました。
単純な形状を作る場合は1つの工程を1つの金型で行う「単発金型」を使いますが、複雑な形を作る場合は、1つのプレス金型の中に複数の工程の金型を等間隔で配列し、プレスの連続で部品を抜く「順送金型」を設計しています。製作後の金型は取引先に納品されるため、手元に残るのは金型の試運転で成形された工程サンプルのみ。その設計のたびに、職人の知恵と経験、そして発想力が重要となります。現在、燕三条から世界に輩出される製品の多くは金型の存在で支えられています。
昭和初期、鍛冶の鍛造技術と研磨技術をもとに燕三条での作業工具製造が始まります。現在は大阪と並ぶ作業工具の産地として、ペンチやニッパー、ドライバーなどを海外に輸出しています。ペンチは大型ハンマーに金型をセットし、熱した鋼を打ち鍛えて形状を整えます。しかし叩くタイミングで製品精度に差が生じるため、機械を操る技術力が必須です。また奥の刃は機械化が難しく、職人が一点ずつ左右の刃を鑢で磨いて、寸分の隙間なく合わせています。
一方、ハンマーの一種である玄翁や金鎚は古くから使われる道具です。燕三条では大正末期から昭和初期にかけ、自然発生的に生産が始まったと言われます。当時は鉄船などの廃材による生鉄を材料に大鎚で形状を作り、打撃面に鋼を鍛接し、鑢で仕上げる製法が採用されていました。やがて技術の進歩とともに丸鋼を材料とした全鋼の玄翁が登場。成型も大鎚から、ベルトハンマー、ドロップハンマー、エアハンマーに変わり、生産効率も高まりました。いまも玄翁は多くの職人に欠かせない道具で、燕三条の鍛治を支えます。
第二次世界大戦後、燕三条でもプレス機が導入されると多様な金属製品の製造が可能になりました。それまでも日本の伝統建築に必要な和釘や大工道具を作っていましたが、雨樋を支える金具、屋根に積もった雪の落下を防ぐ金具、厨房機器など、建築用部材や機械部品へと広がりを見せます。
耐久性と品質が高い部品を効率的に作るには、金型の精度では足りず、職人の経験と技術が不可欠です。たとえ同じ種類の金属でも、厚みや硬さはすべてが同じではなく、扱う材料に合わせてプレスのかけ方や圧力を変える必要があります。
1911年、東京から注文を受けたことで燕三条の金属洋食器製造が始まったとされます。その後、ヨーロッパなどから大量の注文が舞い込み、その製造に銅器や煙管、鑢などで培われた彫金や研磨、そして鍛造の技術が応用されました。以降、燕三条では100年を超えて金属洋食器を製造し、現在では国内生産量の9割以上を占めます。
ひと口にカトラリーといっても、その用途やサイズ、形状の違いで数多くのアイテムが存在します。また種類に合わせて機能性も問われ、燕三条はそれに応え続けてきました。なかでも大泉物産は、1991年からデンマークのデザイナー、カイ・ボイスンが手がけた「Grand Prix」のステンレス製カトラリーを製造しています。現在も多くの工場の技術が世界中から認められており、金属洋食器で培ったステンレス加工技術を活かした、鍋、皿、ポット、カップなど、金属製ハウスウェアを多岐にわたって製造しています。
和剃刀、和鋏はともに日本独自の道具です。和剃刀は武士の月代(さかやき)を剃り上げる刃物でしたが、明治時代になると理髪店で髭剃りに用いられるようになります。燕三条では戦後、刃物製造の技術向上に尽力した岩崎航介が三条製作所を立ち上げ、そこで和剃刀の製造を始めます。棒状の鉄を地金にし、刃になる部分に鋼をつける伝統的な鍛冶技術で、職人が一丁一丁手作業で製造しています。和剃刀は砥石でミクロン単位まで仕上げるため、触れただけで髪の毛が切れるほどの切れ味を誇ります。
現在、和剃刀の職人は日本国内で燕三条に一人を残すのみとなりました。しかしいまもその切れ味を求め、日本全国から問い合わせが次々と届きます。
1860年代、燕三条で初めて金属の着色を行ったのは鎚起銅器で知られる玉川堂と言われています。初代覚兵衛の代は日常雑器として銅器を制作しており、銅は着色せずに素地のままで完成させていました。しかし二代目覚次郎の代に工芸品的要素を取り入れはじめ、宣徳色(せんとくいろ)の着色を行うようになります。
1911年に燕三条で金属洋食器の生産が始まると、真鍮製洋食器にメッキを施すようになります。続く1931年にはそれらへの銀メッキ加工を目的とした初の企業が誕生。戦後に素材の中心は真鍮からステンレスに移り、1970年代にはステンレスのカラー発色製品が製造されました。現在は塗装やメッキ、酸化発色など、多種多様な技術がさまざまな金属の製品を彩ります。
燕三条では江戸時代中期から銅器や煙管などの生活道具を作り始め、明治初期にそれらは海外で展開を始めます。これら製品は贈答品としての需要が高く、人々の手に渡るために欠かせない存在が梱包でした。1873年のウィーン万国博覧会に出展した製品を立派な木箱に納めていたことからも、梱包が製品の魅力を引き出す重要な要素であったことが伺えます。
燕三条で製造される製品が広がるとともに梱包用品も多岐に広がり、現在は、紙や布、プラスティックなどのさまざまな素材が揃います。職人の手で丁寧に作られた製品を人々に届けるため、梱包はいまも昔も燕三条のものづくりに寄り添う産業です。
鉄は古くから、武具、農具、工具の材料となり、現代では自動車や家電製品など、さまざまな領域の材料として欠かせない存在です。島国の日本は資源が少なく、その存在は昔から貴重なものでした。そのため、江戸時代には古金屋(ふるがねや)なる職業が登場します。これは、不要になった鍋や釜などの金物を回収し、それを再生材料として販売する現在の廃品回収業者です。回収された金物は新たな製品へ生まれ変わり、過去から現在まで鉄の循環は繰り返されているのです。燕三条では室町時代の遺跡である大林遺跡から、炉壁、鞴の羽口が出土したことから、たたら製鉄を行っていたことがわかっています。この頃から燕三条でも鉄のリサイクルが行われていたと考えられます。